――天上明月古今無ク、人間世事浮沈有リ。去年楼上絃歌響キ、今日門前鳥雀唫ズ。
大田南畝
――どうぞお身体に気をつけて、穏やかな旅路となりますことをお祈りしております。
シャッツキステ メイド一同
こんにちは、nkhです。十代のころ趣味を同じくした旧友の伝手もあり、当会の末席に名を連ねております。
紅茶にまつわる思い出として私が想起するのは、なんといっても「メイド喫茶」です(幼少の頃、祖父母宅にて振舞ってもらった一杯なども忘れがたいのですが)。クラシック音楽とともに注がれる紅茶、拘りのロングスカート、相席した名も知らぬ同好の士との雑談……過ぎ去りし青春、思い出として美化された秋葉原の情景!
▲私設図書館シャッツキステ(秋葉原、閉店)
これほど良い記憶として現前しているのはなぜなのか。やはり、そこが寛ぎながら友人知人や「他者」と趣味の言葉を交わすことができる「場」であったからでしょう(1)。「場」がないなら、自分で作るか、足で歩いて探し当てるしかない。メイド喫茶という些か特殊な環境に共感を寄せるのは難しくとも、そのような「場」の貴重さは誰しもが知ることと思います。
今年、感染症の流行によって外出が自粛され、インターネット上で様々な交流の「場」が模索されました。コロナ禍以降においては、コンピュータネットワーク上での実践はもとより、社会システム全体を「インターネットそのものの特性をより反映したもの」に変形させてゆくことが強く要請されるでしょう。流動性をもたらす「線」のありかたから根本的に都市が再設計されれば、土地に依って立つ「場」もそのままの形では存続できません。
感染症の流行による社会変化は、インターネットを介して享受されていた(かに思われていた)ある種のサブカルチャーが、その実「東京」という土地の産物であったことを多くの人に改めて実感させました。私の思い出が詰まったメイド喫茶も閉店を余儀なくされ、別れを告げるべく久方ぶりに足を運んだものです。同人誌即売会(2)の運営スタッフを長年つとめてきた旧友が、今年は開催かなわず、同士と顔を合わせる機会がない……と漏らしていたことも思い出されます。
▲旧友とのお茶会(駒場、学生会館にて)
古来より、社会情勢の変化は文藝の行く末を左右してきました。時局の変化をうけて断筆した江戸時代の文人・狂歌師に大田南畝がいます。寛延二(1749)年、下級武士の家に生まれた南畝が十九歳で文芸活動をはじめたとき、江戸は上方への文化的依存を脱して独自の文化を産出しようとする揺籃期の只中にありました。宝暦から天明にかけて初期読本・黄表紙・洒落本など、主として士分・準士分の者達による戯作の文芸が盛況をなすなか、南畝は狂歌や戯作に目覚ましい才能を発揮します。
田沼時代に栄えた町人文化は政変によって静まりかえり、南畝も文芸活動を停止しました。冒頭に引用した言は、断筆して南畝が新生活をはじめた折のものです。時代が「是ではならぬと松平定信が出て、前代儒弱の風俗を厳しく取り締ま」る寛政の改革へと進んでいったのはよく知られているとおり(政策面においては両者の連続性も多く指摘されるところです)(3)。有名な狂歌に「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」とうたわれた改革には反発も強く、定信は寛政五(1793)年、改革を後任に託して失脚することとなりました。
享和元(1801)年頃、定信は領地白河にて「南湖」を造営しました。柵や塀はもとよりなく、士農工商の別なく湖に舟を浮かべて風景を堪能することができたといいます。現在では国指定史跡に指定され、公園(Public Garden)の先駆とも見做される「南湖」は「江戸時代にあって際立って強く〈共楽〉の思想を反映」したものでした(4)。
大正後期から昭和初期、震災復興にかけて、東京において本格的に「公園」が注目されます。石原憲治らによってアメリカ流の公共空間が提案されていた中での震災復興は、大正デモクラシーの進歩的な思潮が残るものでした。「都市人口の集積の結果、各自が庭を持つことができなく」なり、自動車・自転車の普及によって子どもの遊び場が失われた結果としても、公園の要請は不可避であったでしょう(5)。
時代の移り変わりによって、様々な立場から多様な「場」が考案されてきました。インターネットが普及し、移動手段の多様化とともに全面的に都市化した国土においては、もはや「場」は固定化された土地、閉じた人間関係を基礎としないのかもしれません。詳細な議論は世にある精緻な論考に譲りますが、私が今個人的に「場」のイメージを仮託しているのは、旅の土産話を持ち寄る旅団の集いや、糸と糸が織りなす編み物などです……(6)(7)。
▲ワンダーパーラー(池袋)
考えてみれば、この紅茶同好会も河口さんらが作ってくださった「場」のひとつです。ありがとうございます。
「場」は、言うまでもなくひとりで作ることができるものではありません。なんらかの類縁性をもとにして繋がりが生まれ、輪が形作られます。「輪」をいかに広げてゆくべきか、維持を画策するときの困難にどう向き合うか、また、「輪」の実質をいかに担保するかは本質的に対立を孕む難しい問題ですが、ひとまず当会の紐帯を生み出しているのは「紅茶」になるのでしょう。
紅茶文化に参加していると自負する者は、紅茶の「輪」のためになにをなすべきでしょうか?昨年急逝された紅茶研究家の磯淵猛氏は生前、紅茶を愛飲する者は「未来により幅広く、多岐にわたって紅茶を楽しみ、産地を、生産者を、文化を守り支えていく責任がある」、と強調しておられました(8)。
記述がそろそろ身の丈を超えつつあることは自覚しています。文化なるあらわれについて相応しい記述をするには紙幅も私個人の能力も足りませんから、ひとまず、己が身に宿したと信じるものに焦点を絞ります。各人がそれぞれに置かれている一回きりの「場」への接地。なぜ、その「場」が「そのような」ありようで成立してきたのかの理解につとめ、「場」を構成するものとして舞台に身を委ねるとき、先達から受け継ぎ、後進へと託してゆく「もの」として何を為すべきかが自覚され、身体が自然と動き、言葉が紡がれてくることでしょう。それは、ひょっとすると「自分ではない」次の誰かを動かしはじめるかもしれません(9)。
▲萌姬女僕咖啡館(台北)
メイド喫茶にはじまり江戸文化から紅茶まで、脇の甘さを自覚しつつも欲に抗えず、筆の赴くまま書き散らした拙稿ですが、最後はやはり、青春時代に情熱を傾けた秋葉原の空に思いを馳せ結びとします。都市の片隅で一時代を作った、表立って「文化」と呼称するにはどこか閉じていて頼りなく、だからこそ愛されもしたであろう「なにか」。それは時代が、人が産み落としたもの。(後世からみて)経済的に小康状態を保っていた時期の様相、という一点のみで立ち会ってもいない過去を引き出し、安直に系譜的正当性の典拠として主張するのは慎むとしても、過去の爛熟の帰結に思いを馳せ、「今、ここに立つものとして」制作すべき地図を黙考する助けとなすことは許されましょう。
社会の変化や、担い手の交代による「場」の変質は必然。それでも、変わりゆく世相のなかにあって「なにか」がまだ役割を果たしうるならば、必要とする人に届いてほしいと願うのです。閉じた空間にありながら激動の渦中に身を差し出していた者として、敢えて今、拙い言葉を手繰り寄せ……「なにか」に関わった・関わり続けているこの人に、あの人に、大切な誰かと紅茶を一杯飲む時のような、少しだけあたたかい交感があってほしいと祈るのです。
(1)久我真樹は『日本のメイドカルチャー史 下』において、メイド喫茶や執事喫茶を「「主従関係の再現」というより、「主従関係が約束された物語性」を帯びながら、「この場所では寛げる」という「サードプレイス」」を提供するもの、と位置づけている(p.468)
(2)同人誌とは、同好の士によって自費出版される同人雑誌のこと
(3)藤井乙男『近世小説研究』(秋田屋、1947)p.2
(4)今橋理子『江戸絵画と文学〈描写〉と〈ことば〉の江戸文化史』(東京大学出版会、1999)p.275
(5)陣内秀信『東京の空間人類学』(筑摩書房、1992)p.286
(6)松島斉『ゲーム理論はアート 社会のしくみを思いつくための繊細な哲学』における「居場所探し」(p.258)Z. バウマン『コミュニティ』における「分かち合いと相互の配慮で織り上げられたコミュニティ」(p.223)などの語彙から着想を得た
(7)そのような理想化された「場」は「分離し、隔離し、距離をおく(Z. バウマン、同上)」ことでしか成り立たない、といった限界はよく指摘される。私が当会に参加できているのは、それでも紅茶同好会という「場」を実際に作ってきた先賢の努力によるものであり、ありがたく思っている
(8)磯淵猛『紅茶の教科書』(新星出版社、2012)p.3
(9)本稿で幾度か言及されている特定の「サブカルチャー」をめぐる様相は、都市の学校空間における諸制度と連動しながら90年代後半~00年代前半にひとつの完成をみている。内輪に向けた様式美、過剰さの追求は「普遍性」とは凡そかけ離れたものであるが、そこで用いられていた表現様式は社会構造の変化や情報社会化の進展に乗じて人口に膾炙し、近年では独自の地位を獲得するにいたった。内向きになること、成熟しないことが容認される(極めて恵まれた)土壌においても「先達から受け継ぎ、後進に託してゆくもの」という世代交代の比喩を筆者は認めてきた。制度の破壊は本意ではない。思春期の偶像や学究の徒を演じ切り、その結果を引き受けた担い手達が、相互のゆるやかな繋がりを保ちながら「その後」の足跡を愛してゆけるよう願うものである
文責:nkh
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