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ポーランド文化・歴史紀行

0.    はじめに


Dzień dobry, szanowni Państwo! (みなさん、こんにちは!)

 

本日の記事を担当します、3年の大場です。

 

 みなさんはポーランドにどんなイメージをお持ちでしょうか? 一番はショパンでしょうか。 アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所もポーランドにあります。 大人の方ならヨハネ・パウロ2世や「連帯」のレフ・ヴァウェンサ(日本では英語読みでワレサと呼ばれていますね)、映画ファンなら『戦場のピアニスト』『灰とダイヤモンド』『シンドラーのリスト』、文学のお好きな方はジョゼフ・コンラッドやスタニスワフ・レム、理数系の方ならエニグマ解読、世界史のお好きな方は自由主義貴族コシュチューシコや近世の大国、シュラフタ共和政という特異な統治形態のイメージをお持ちかもしれませんが、正直なところショパンとアウシュヴィッツくらいしか知らない、という方も多いかもしれませんね。

 というわけで、訪れた場所を淡々と紹介しても良いのですが、今回はそれだけではなく、ポーランドの文化や歴史にまつわる幾つかのトピック—ショパン、食文化、ポーランドのロマン主義、ポーランドとユダヤ、政治状況など—について触れながらお話ししようと思います。 かなり長いので、興味のあるところを拾い読みしていただければと思います。 なお、文章には私の政治的見解が含まれますが、文責は全て私にありますことをご承知おきください。


1.    首都ワルシャワ

 近世以降ポーランドの首都として機能してきたワルシャワ。 旅行会社のパンフレットや観光ガイドさんのブログなどを読んでいると、後でご紹介するクラクフなどに比べあまり見るところがないかのように言われがちなのですが、そんなことはないと思います笑 とりわけ、ショパンが好きな方には。 とはいえ、到着直後の印象は最悪でした。 ワルシャワ・ショパン空港の入国審査で1時間半も並び、スーツケースを引き目的地を間違えながらワルシャワ中央駅に到着し、やっとのことで列車のチケットを購入し駅のロータリーで目にしたものがこれです。(次の画像とこの後数行の文章はクィアの方々にショックを与える可能性がある表現が含まれますのでご注意ください)



反LGBTQ+の街宣車です。 詳細に訳すことは避けますが、いわく、LGBTコミュニティは子供たちにセックスを教えようとしている、と。 性的少数者という「存在」を「思想」と混同し、包括的性教育をセックスの推奨と取り違えた、荒唐無稽ながら残念なことに日本でも見慣れた詭弁ですが、2015年から今月(!)まで続いた極右ポピュリスト政権(反性的少数者のみならず、排外主義宣伝や公営放送の乗っ取りなど)のもと、こうしたあからさまな反性的少数者政策とその宣伝が公然と行われてきたのです。 私はこれを見て、5年ぶりにこの国に来たことを少し後悔しかけました(もっとも、日本にいてもクィアにとっての状況はろくに変わらないのですが)。 しかし、ホステルに徒歩で向かう最中、レインボーカラーのトートバッグや缶バッジを身につけた人、マンションのベランダにたなびくレインボーフラッグを見て少し気力を取り戻しました。 いきなりワルシャワの嫌なところをお見せしてしまいましたが、ワルシャワ市民のために弁解すると、こうした前政権(皮肉なことに与党名を「法と正義」といいます)に反対するワルシャワ市民を中心とした数千人のデモ隊が中心街の大通りや広場を埋め尽くし、先の選挙ではワルシャワ市の投票率84%という高水準のなかで前政権はついに追い立てられました。 暴政に抗うワルシャワの良心は未だ滅びていません。

 

 せっかくですからワルシャワの楽しいところもご紹介しようと思います。

ワルシャワの観光客が必ず訪れる場所といえば、ワルシャワ王宮とそばにある王宮広場・旧市街・新市街(新市街といっても近世の街です)でしょう。 まずは王宮からご紹介しますね。


 先にお話しした通り、ワルシャワは近世の17世紀以降首都となりましたから、豪奢な王宮が建てられました。 玉座のみならずシュラフタ共和政(大雑把に言えば、士族の議会制で、王も彼らの選挙によって選ばれる時期が長く続きました)の議会もここに置かれ、近世・近代ポーランド政治の中心となってきた歴史深い場所です。 しかしながら、市街地の多くの場所同様、ドイツ軍によって美術品の略奪や、1944年8月に始まったワルシャワ蜂起への報復としての徹底的な破壊が行われ、また共産主義政権下では君主主義の象徴となるこの宮殿は疎まれたために、再建は遅れに遅れました。 現在の宮殿は旧市街・新市街同様懸命な復興・修復によるもので、永久に失われた美術品も多いのです。



 お次は旧市街です。 あまりいい写真がなくて申し訳ないのですが、画像のような味のある建物が四方を囲む広場になっています。 観光客向けのレストランや土産物屋が多いのですが、この一角に老夫婦の営む老舗の民芸品店があって、ここがなんと言ってもおすすめです。 刺繍や彩色の施された木工品、伝統的なアクセサリーに子供用サイズの民族衣装と、ポーランド各地の民芸品が揃っています。 見るだけでも楽しいですし、素晴らしいお土産になるでしょう。

 

 これらの場所ほど有名ではないかもしれませんがご紹介したいのが、ポーランド・ユダヤ人歴史博物館です。 ポーランドとユダヤの深い関わりについてはクラクフのところでご説明しようと思いますが、ここでは中世からホロコースト、現代に至るまでのポーランドにおけるユダヤ人の歴史が解説されています。 個人的にはユダヤ啓蒙主義やロシア帝国占領下の弾圧の様相、ローザ・ルクセンブルクと「ブント」を中心とするユダヤ社会主義や戦間期のユダヤ文化などに関心を惹かれました。 あまりに見所が多いので私はここに丸一日いました……。



 さて、ここでワルシャワで食べた美味しいものをいくつかご紹介しましょう。(肉食の写真が含まれます。 ご覧になりたくない方は飛ばしてお読みください) 


まずはポーランドの典型的な朝食。 何種類ものチーズとハム、きゅうりやトマト、ライ麦パン(白パンのときもあります)。 余談ですがポーランド語で朝食はśniadanie(しゅにゃだーにぇ)と言います。 かわいいですよね、しゅにゃだーにぇ。



お次はピェロギ。 日本でいう寿司くらいの代表料理です。 もちもちの水餃子みたいなものですが、面白いのは具材のバリエーションです。 おかず系では挽肉、チーズ、マッシュポテト、きのこなど、甘いものではさくらんぼや林檎にいちご、フランボワーズなどなど……。 画像はフルーツのピェロギのミックスですが、甘さ控えめで果物そのものの味わいでした!


 こちらはプラツキと呼ばれる、じゃがいもをたっぷり使ったお食事パンケーキ。 このときはパプリカのソースに豚肉とお野菜が入ってました。 プラツキは表面に焼き目がついて、細切りのじゃがいものサクサク感と旨味がたまらないのです……!



 こちらはポーランド・ユダヤ人歴史博物館のカフェにて、ユダヤ料理のアヒルのオレンジ煮込み。 オレンジの甘味と酸味がよく染みていてほろっほろ……! またポーランドのレストランで出るスローサラダって、リンゴやオレンジ、ディルなど味付けが凝っていて美味しいんです。


ワルシャワの美味しいものをお見せしたところで、ワルシャワにあるショパンゆかりの地をいくつかご紹介しましょう。










 まずはショパン博物館。 ショパンの手稿や手紙、手書きの楽譜、ゆかりの品々、果てはデスマスクまでが展示されています。 少年期に巡ったポーランドの土地、ショパンと関わりのあった女性たち、ショパンの旅した地など、生涯を概観できる展示になっています。 地下ではショパンの全曲を聴くことができるコーナーがあります。



 こちらは聖十字架教会。 こちらにはなんと、柱の一つにショパンの心臓がおさめられています。 ショパンは1848年、二月革命を機にパリの芸術界で起こった混乱の中、英国に渡ります。 スコットランドにも旅したショパンでしたが、長く患っていた結核を当地の寒さで悪化させてしまいます。 死期を悟ったショパンはポーランドへの帰国を望みますが、中途のパリで死の床に就きました。 せめてとポーランドでの埋葬を望んだものの、ポーランドの精神的英雄となっていたショパンの埋葬を時のロシア皇帝ニコライ1世は許さず、ショパンは姉ルドヴィカに、心臓だけでも密かにポーランドに持ち帰るよう懇願します。 かくしてショパンの心臓はここ、ワルシャワの聖十字架教会の柱の中におさめられたのでした。 その柱にはレリーフが造られ、マタイによる福音書からぴったりの引用が墓碑銘として刻まれています。 いわく、„Gdzie skarb twój, tam i serce twoje”(汝の宝のあるところに、また汝の心もある)。




 こちらはワジェンキ公園。 かつては宮殿とその庭園だった広大な公園に、美しい森や噴水の数々、ワルシャワ大の植物園などがあります。 人懐っこいリスがたくさん走っていたり、宮殿の建物は国立美術館の別館になっていたりと、公園自体が丸一日過ごせる場所なのですが、夏期(5〜9月)の日曜日にショパンのリサイタルが行われることで有名です。 私が訪れたときはその年最後のリサイタルだったので、バラード第1番や英雄ポロネーズ、アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズなど、ショパンを代表する名曲の数々が演奏されました。 ここで大ポロネーズが聴けるとは思っておらず、思わず感涙……

 

 ワルシャワのショパンゆかりの地は他にも、ショパン一家が一時期居住していたサスキ庭園やワルシャワ大の建物、ショパンがミサのオルガンを弾いたヴィジトキ教会などいろいろあるのですが、紙面の都合上割愛させていただきます。


1.     ショパン生誕の地、ジェラゾヴァ・ヴォラ


 ワルシャワのショパンゆかりの地をご紹介したところで、ショパンの生まれたジェラゾヴァ・ヴォラについてもお話ししましょう。 ジェラゾヴァ・ヴォラはワルシャワから列車(ソハチェフ駅から市バス)またはバスで1時間半ほどのところにある小村です。 ショパンは生まれてからほんの数ヶ月しかここで暮らしませんでしたが、当時の生家の様子が後世の考証により復元され、周囲にはのどかな庭園が造られました。 小さな展示室とシアターも併設され、ショパンが子供時代に好んだワルシャワの宮廷の庭園をイメージした花々の水彩画展が行われていました。 ここでも土日には、生家内のグランドピアノでショパンのリサイタルがなされ、聴衆は外に並べられたベンチに座って屋内から聞こえてくる旋律に耳を傾けます。 私が行ったときにはやはりバラードの第1番や、マズルカop.24などを演奏していました。 ショパンファンの方でも、リサイタル込みで半日ほどあればじっくり見られるように思います。



2.     中世の古都クラクフ










 ワルシャワが江戸・東京であるとすれば、京都にあたるのがクラクフでしょうか。 多くのポーランド人は(ワルシャワ出身者さえ!)ワルシャワよりクラクフの方が綺麗だと言います。 実際のところ、中世の王都としての街並みを色濃く残し、コペルニクスやヨハネ・パウロ2世を輩出したヤギェウォ大学を擁すとともに、ポーランド分割期においてはポーランド文化復興運動の中心地となり、第二次大戦による大規模な破壊を免れた数少ないポーランドの大都市であるクラクフは、文化都市としての名声も高いのです(世界遺産に最初に登録された場所の一つでもあります)。 個人的には、2017年の夏にヤギェウォ大学のサマースクールに参加していたこともあって、思い出深い都市です。

 まずは街のシンボル、中央広場に位置する聖マリア教会からご紹介しましょう。



 聖マリア教会には二つの尖塔があり、これは建築家の兄弟に塔の高さを競わせたと言われていますが、この塔の上から毎時ある儀式が行われます。 窓から人がトランペットを吹き、曲の途中で突然演奏をやめてしまうのです。 これは、モンゴル軍襲来の際、ラッパ吹きが市民に襲来を告げるためラッパを吹き鳴らしたものの、その途中にモンゴル兵に弓矢で射られてしまったという伝説に基づいています。 余談ですが、こうした「アジアからのヨーロッパの防壁」としてのアイデンティティはポーランドのナショナリズムに色濃く反映されています。 モンゴルを辛うじて食い止めたポーランド、オスマン軍に包囲されたウィーンを救出したポーランド軍のフサーリャ重騎兵部隊、ロシアの正教徒という「異教徒」からのカトリックの護り手……。 



 続いてクラクフに関わるナショナリズム的な芸術運動についてご紹介しましょう。 ポーランドではロシア、オーストリア、プロイセンの三国による分割以降、独立のため何度も軍事蜂起が行われました。 右の絵はまさにそのような蜂起の一場面で、アメリカ独立戦争の義勇兵としても有名な自由主義貴族コシチューシコがクラクフを拠点に蜂起を起こした際、市民に向けて蜂起の宣誓を行った様子を描いています。 しかしながら、こうした蜂起はことごとく鎮圧され、ポーランドの貴族・知識人は独立運動の方針転換を余儀なくされます。 民族的でロマン主義的な芸術・文化運動によって民族意識を保とうというものです。 この時代に、「抑圧に勇敢に抗うポーランド人」というロマン主義的自己イメージが形成され、それは現在まで引き続いています。 音楽ではショパンのマズルカやポロネーズがパリに亡命したポーランド人エミグレの心を慰め、文学では国民的詩人アダム・ミツキェーヴィチが『パン・タデウシュ』において、かつての対露協力をめぐっていがみ合う二つの貴族の家系が紆余曲折を経て和解し、ポーランド解放のため手を取り合ってナポレオン軍に加わる様を描いています。 絵画においては、一・二世代ほど下り、写実的なタッチではあるものの、クラクフ出身の国民的画家ヤン・マテイコがポーランドの歴史的出来事を題材とした絵画を多く創作しています。 上に画像を挙げた『プロイセンの臣従』(長らくポーランドと戦ってきたドイツ騎士団の騎士団長アルブレヒトがポーランド王ジギスムント1世に臣従を誓った際の絵)なども代表例の一つですが、マテイコの歴史画はとりわけポーランドの「栄光の時代」や独立のための闘争を、美化も加えながら英雄的に描いているのが特徴です。 



 続いては旧市街の南の丘に聳える中世の王城、ヴァヴェル城です。 ここにはかつての王族たちの居室やその調度品はもちろん、ルネッサンス期から近代に至るまで王室のため製作された絵画やタペストリー、武器庫に保管された武器の数々、王室の所有した工芸品などが展示されています。



 次に紹介したいのが、国立の民俗学博物館です。 こちらは当地の農家の再現や農民生活の記述などさまざまな展示がなされているのですが、なにより見ていただきたいのがポーランド各地の民族衣装の展示です!!



 ポーランドの民族衣装、特にマウォポルスカ地方の女性の民族衣装って本当にかわいいんです……!  ぜひお手元のスマホで「ポーランド 民族衣装」と検索してみてください。 花柄の刺繍を施した黒いボディスに白いブラウス、赤い珊瑚か琥珀のネックレスにこれまた草花の刺繍をしたふんわりとした鮮やかなスカート……   ワルシャワを中心とするマゾフシェ地方では緑や紫の縞模様が施されたスカートが特徴的で、こちらもかわいい!


 マネキンではなく実際に人間が着るとどんな雰囲気か気になりませんか?ということで、こちらをご覧ください。



 ブレた写真(動画のスクショです)で恐縮ですが、こちらはクラクフの老舗レストラン「ヤナ・ミハリカ」の民族舞踊のディナーショーです。 このめちゃくちゃかわいい衣装が舞うのを間近でめいっぱい眺め……ているとダンサーさんたちに手を取られ、クラコヴャク(クラクフの民族舞踊)やマズルカ、ポロネーズを一緒に踊ることになります笑 レストラン自体もとてもレトロでシックないいところですし、こんな機会もなかなかないですからおすすめです!(英語で電話予約可)

 つい熱くなってしまいましたが、次にご紹介するのはクラクフとユダヤについてです。


 ポーランドとユダヤ人の関わりは深く、13世紀にユダヤ人の諸権利を承認したカリシュ法以降、ユダヤ教(後にプロテスタントも)への宗教的寛容が国是とされてきました。 とりわけクラクフでは14世紀に国王カジミェシュ3世(ポーランド王で唯一「大王」の称号を持ちます)が西欧で迫害されたユダヤ人を保護し、旧市街の城壁の南隣にユダヤ人街を建設しました(現在のカジミェシュ地区)。 映画『シンドラーのリスト』の工場があったのもこのカジミェシュ地区ですね。(監督のスピルバーグが目下の虐殺に関してイスラエル支持を表明していること、本当に残念でなりません。 今まであの人が作ってきた映画は一体なんだったのかと怒りさえ感じます) カジミェシュ地区はホロコーストにより壊滅的な打撃を受けてしまいましたが、今でもシナゴーグが存在し、正統派ユダヤ教徒の姿も見られます。 私が泊まった宿はユダヤ料理レストランの階上にあるクラシカルなお部屋で、夜にはレストランでクレズメル(クレズマーとも、クラリネットの音色が豊かな東欧系ユダヤ人の民族音楽)の生演奏がなされ、朝食はこのレストランでユダヤ教の戒律に則った(1人分とは思えない量の)朝ご飯が出ました。



さて、先に触れたワルシャワの朝ご飯と比べてみてください。 ハムがないことにお気づきでしょうか? ユダヤ教では肉製品と乳製品を同時に食べてはならないので、チーズやヨーグルトのある代わりに茹で卵と魚製品(この日は鯖の燻製、ニシンのオイル漬けのときもありました)が出るのですね。 オレンジジュースの瓶の手前には中東料理のフムス(ひよこ豆とオリーブオイルのペースト)も出ています。 (ちなみに左端の巨大なケーキはシャルロトカと呼ばれ、シナモン風味のりんごがたっぷり入ったクランブル生地のケーキです。 私はこれが大好物です。)

 

 ポーランドとユダヤの関わりは、単にポーランド王国の宗教的寛容のもとユダヤ人が(比較的)平和に暮らしてきた(そしてホロコーストで欧州最悪の被害を受けた)ということに留まりません。 戦後スターリン主義体制下のポーランドで「反コスモポリタニズム」の旗印のもと吹き荒れた反ユダヤ主義(要するに、ユダヤ人はソ連なりポーランドなり「祖国」にアイデンティティを持っていない、とする差別的非難です)についても本当は紙面を割きたいのですが、ここで特にお話ししておきたいのは現在のイスラエルの体制に戦間期ポーランドのそれが多かれ少なかれ影響していることです。 ポーランドは第一次世界大戦後に独立を果たすと、すぐさまウクライナやリトアニア、ベラルーシへの侵略を行いました。 ポーランド分割前にポーランド・リトアニア共和国領であった「故地」を回収しようというのです。 結果、ポーランド共和国はウクライナ人やリトアニア人、ベラルーシ人といった多くの民族的マイノリティを支配することとなりました。(もちろん、その前は「単一民族」国家だったというわけではありません。 当然ながらそんなものは幻想です。) そうした中でポーランドが苦悩したのが、「(民族として)ポーランド的」であることと「民主的」「多文化共生的」であることを憲法上両立することでした。 ここまで書けば皆さんもお気づきかと思いますが、イスラエル国家はここから学ぶものがあったのです。 英国の武力を背景にパレスチナという「故地」に領土を拡張し、アラブ人という「異民族」を支配下に置くことになったイスラエルにとって、ユダヤ人を優位に置く差別的な政策と、西側諸国の歓心を買うための(建前上の)民主性の両立を狙う上で、こうした戦前のポーランドのあり方は示唆的なものでした。 多くのシオニストがポーランド出身でしたからなおさらです。 中世から続くポーランドとユダヤ人の歴史は、間接的に現在のイスラエル軍によるパレスチナの軍事占領とジェノサイドにも繋がっていた、というお話でした。(この辺りは鶴見太郎先生の研究に詳しいです)


3.     最後に


 アドヴェントカレンダーだというのに最後に後味の悪い話を持ってきてしまい申し訳ありませんが、いくら目を背けようとも虐殺は今この瞬間に続いています。 それもイエス生誕の地で。 だからといってクリスマスを祝うのをやめようというわけではありません(むしろ私も満喫しています)。 しかし、例えばマクドナルドやスタバ、KFC、セブンイレブンやファミマなどイスラエル支援企業の商品を買わずにクリスマスを過ごすということもできるでしょう。 

 もう一つお詫びしなくてはいけないのは、あまりにギリギリにあまりの長文を書いてしまったために、本当は紹介したかったもう二つの街—海上交易で栄え、第二次世界大戦開戦の地となり、ポーランド民主化運動の中心となったグダンスク、ドイツ騎士団の根拠地であり巨大かつ壮麗な城のあるマルボルク—を省略せざるを得なかったことです。 もっと早く書き始めるべきでした……。

 しかしながら、この記事で少しでもポーランド文化に魅力を感じ、ポーランドに詳しくなっていただけたなら幸いです。 みなさまもぜひ一度いらしてください……!

Wesołych Świąt Boże Narodzenie, i  Pokoju Światu!

(楽しいクリスマスを、そして世界に平和を!)



















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