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12月24日深夜に上空に現れる謎の飛翔体についての考察(大嘘)

1ご挨拶

 こんにちは。4年の柳生悠太と言います。皆様、紅茶の摂取量は十分でございますでしょうか。あんまりいいタイトルが思いつきませんでした。

以下没案。

「哲学をSFする。/SFを哲学する」:陳腐。

「哲学はSFと見つけたり。」:過剰汎化。(世はそれで満ちている。)

「空想哲学入門」:何それ?


現行タイトル:S Fっぽいタイトルをつけてみました。信じるものは、いいものがもらえるかもしれない。

貧しい時ほど、言葉は豊かになるからといって、ボキャ貧が豊かさを意味する訳ではありません。逆と裏と対偶。


2 前置き

 さて、皆さんは空想科学というジャンルをyoutubeとか、本とかで見かけたことはあるでしょうか?また、科学の発展は、SFの寄与によるところが大きいみたいな話も聞いたことがありますでしょうか?

 大雑把な(自然)科学という分野において、SFの影響が存在するという事実は、知る人ぞ知るところではありますが、別にSFのような要素、考察は科学に限られた話ではないんじゃないかなと思い、この文章の執筆にあたりました。(こら、そこ、哲学は人文科学、法哲学は社会科学とか言わない。)(←しかし、あらゆる学問が『科学』たり得ようとするのは何故だろうか?『科学的』であることを是であるとする風潮はおそらく存在するが、『科学』は何を意味するのだろうか?それは無批判に受容していいものだろうか?)

 今回のテーマは、哲学、主に法哲学の議論において、SF的考証、設定が議論を形成していたり、根底としてSFのテーマと哲学の探究対象が重複する側面があるということについてです。これを読んで、哲学も案外とっつきやすいなとか思ってくれたら嬉しかったりします。


3 題材1 経験機械

 幸せな豚か、不幸なソクラテスかという二者択一がありますが、誰でも幸せな豚になれるのがこの経験機械だったりします。ディストピア小説などで、人々が装置に繋がれて夢を見続けているなんてシーンがよくありますが、経験機械のイメージとしては、装置に繋がれて幸せな夢を見続けているという感じです。ロバート・ノージック(著名なリバタリアン。  『ユートピア・国家・アナーキー』等の著作がある。)が功利主義批判を行った際に、この概念が出てきています。功利主義の議論においては、社会の幸福を最大化するという目標が採用されますが、その幸福の内容についてはいくつかの説が存在します。ノージックが批判したのは、幸福とは快楽のことを指すという説で、仮にこの説を採用すると、経験機械に一生繋がれていることが幸福なことであり、社会の成員を手当たり次第に経験機械に繋いでおけという話になってしまいます。ディストピア映画で戯画化されている通り、全くまともではないと大半の人は判断すると思いますが、現実にあったら、少なくない人が快楽装置を使っちゃうんじゃないかなと個人的に思ったりする今日この頃です。ちなみに、VR技術を利用したメタバースが最近?のトレンドになったりしてますが、皆がゴーグルをつけてメタバースに接続している状況って絵面としては結構ディストピアしてますよね。


4 題材2 復元

 ドラえもんのどこでもドアなんかで有名なワープ技術ですが、哲学の分野においては、大真面目に議論されていたりします。問題としては、ワープする前の人物Aとワープ後の人物Aが同一人物かどうかという問題です。当たり前じゃんと思われるかもしれませんが、ワープのやり方によってはそれが疑わしくなります。本当に空間を歪めて、普通の移動と同じように別の場所へワープした場合は、特にその問題は起きないように思われますが(起点から終点までの空間を歪めることの難易度や影響はともかくとして)、起点において人物Aの身体を原子レベルに分解し、終点において人物Aを復元した時、それは本当に同一人物Aなのでしょうか?この問題に関しては、何をもってある人物の同一性を担保するかという立場により、答えが変わってきます。これに関する議論については多岐にわたるので、詳細は省きますが、身体の物理的連続性という観点からすると、連続性は失われていることとなり、起点と終点の人物Aは別人ということとなります。一方で、記憶の連続性を基準とすると、復元さえまともにうまくいっていれば、人物の同一性は保たれているということになります。しかし、さらに問題は複雑化しえます。例えば、ワープ成功後に、起点に元の人物が残ってしまった場合や、身体の半分ずつ別の場所に復元された場合、ワープは成功したものの記憶喪失になった場合など、ワープを行なっても人物の同一性が保たれると論じる場合、記憶の連続性では担保しきれないところがあります。これらのハードケースの極端な例が、project moon作品の世界に出てくるW社です。ネタバレになるので詳細は伏せますが、W社の運行する「ワープ」列車では、起点において搭乗するのは人なのですが、「ワープ」後には乗客が人の形を留めないレベルに変化し、それをW社の社員が「現状復旧」します。さて、乗客たちの人物の同一性が保たれているのでしょうか?(ただ、これは、ワープの粒子レベルへの分解と復元を妙にアナログにやっただけの気もします。一方で、ワープに心理的な抵抗がないけれど、「ワープ」列車には乗りたくないみたいな人も結構いるような気もしますが、生々しさの問題なのでしょうか)一方で、お金を積んでおけば、(コールドスリープによって)この人物の同一性のパラドックスを回避することが可能です。そういうとこまで妙に生々しいですね。


 「私以外私じゃないの」なんて曲が一時期流行りましたが、そう遠くない未来にその私は私なのかなんて問う時代が来るかもしれません。(未来予測なんてSFのそれ含めてほとんど当たらないとは思いますが)

参考写真(BEFORE→AFTER)

左写真真ん中の子です。


5 題材3 タイムパラドックス

 今日の法哲学、ロールズの改訂版正義論などにおいて、世代間正義なるものが強調されるようになってきました。将来世代への責任という議論は、環境保護政策や資源の消費のセーブ、経済的冒険の抑制など、様々な内容を含意します。SDGsが声高に叫ばれる中、このような議論については抵抗なく受け入れられている感じがしますが、これに対する奇妙な反論が存在します。

「世代間正義に則った政策を行った時に生存しているであろう人類は、世代間正義を行わなかったときに生存している人類と異なるため、今生きている人類は将来世代に対する責任を負わない。」

 詭弁もいいところだと真面目な皆様は思われるかもしれません。しかし、この反論は、SF的に面白い反論で、タイムパラドックスの問題を(部分的にとはいえ)哲学の俎上で論じようとするものです。ちなみに、上記の反論に対する回答は、世代間正義は、特定の人物に対して妥当するものではなく、将来の世代が集団でもつ権利(生活権など)を保障することにあるのだから、世代間正義が課す義務は、このような反論によっては免除されないということになります。この回答は、タイムパラドックスなどの問題に触れることなく解決できており、直観的にも妥当だと思われます。ただ、この回答は、当然ながら、タイムパラドックスの問題に対して、何ら示唆を与えていません。

 SFにおいて、タイムパラドックスの処理はなかなか難しいものがあり、元の世界に収束する、パラレルワールドが誕生する、全く違った世界に改変されてしまうなどタイムパラドックスに関しては様々な処理が行われてきました。ただ、ここでの問題としては、個人、社会、政府のいずれにもかかわらず、過去にとった行動が未来を規定してしまっていることです。このようなタイムパラドックスは、別にタイムマシンに乗らなくても日々生じていることになります。また、一般的なパラドックスが未来から過去への干渉という形態をとるのに対し、私たちは、日々過去の時点から未来に干渉しているといえます。この問題に対して、現実なるものがただ一つだけ存在していれば、現実を基準(権威)とした特異点や現状への収束という議論が成立することとなります。現実への収束という考え方をとれば、収束の程度にもよりますが、同一性の問題の存在可能性を下げることができます。一方で、量子力学の世界観のように、等価な世界線が無数に分岐していた場合(シュレディンガーの猫参照)、そもそも、どの世界を基準とすべきかという問題が生じてしまい、今の世界も偶然生じた一つの可能性以上の意味合いを持たないということになってしまいそうです。当然ながら、世代間正義を果たした世界線と、そうでない世界線は並立するので、この批判は、正面から回答しようと試みる限りにおいて、かなりの難問となるでしょう。とはいえ、そのような前提を取ると、そもそも、タイムパラドックスの概念が意味を持つのかという問題になりそうです。(パラレルワールドが無数に存在することに対する応答として、パラレルワールドが幾つ存在したとしても、今いる世界からパラレルワールドには絶対に到達できないのだからどうしようもないという回答があります。要はこんなこと考えて何になるのって話。)

タイムパラドックスの問題を克服する方法については、未来と現在を一度何らかの形で断絶させるという方法が考えられるでしょうか。現在の事象が、未来の社会に干渉してしまうということが問題なので、たとえば、2100年に破滅的な災害により人類が滅亡し、2300年に全く違った生物種が地球に住み着くみたいなことが起これば、2100年以前の事象は、2300年の新生命体の社会にとって何ら意味がなく、ある意味、過去の人類の行いから、2300年の生命体たちは自由であるということになりそうです。どのみち、非現実的な話ではありますが。

 話は変わりますが、個人的に、タイムパラドックスなどの話題について考えていると、現在や未来がどうしても過去に制約されてしまうということについて強く意識してしまいます。この問題意識は、ロールズの自我モデルに対する、サンデルの批判にも見られます。(ただ、彼の批判に関しては、共同体が個人の判断や、志向を規定するというこれまた極端なモデルなので賛成しかねます)また、ポップカルチャーにおいて、現在や未来を特権化し、あたかも過去からの制約から脱却しているかのように描いているものが少なからず見受けられますが、なぜなのでしょう?過去の制約に対して無意識的なのか、それを知った上で敢えてそのように表現しているのか。決定論者ほどではないですが、未来が過去にある程度制約されることは、事実としてあると思いますし、それにもかかわらず普段あまり意識されていないような気もします。まあ、この事実は、時として陰鬱なものですけれど。


6 クリスマスですね。

 ここまで読んでいただきありがとうございました。そんなこんなしているうちにもう年末ですね。今年は、個人的にはいろいろやることやってたらすぐに過ぎちゃった感じでした。あと、12/25付でgclefの福袋が届きます。中国茶のやつです。楽しみ。

 文章に関しては、割と思いつきの面もありますし、厳密性に欠ける面とかもあるので、気づいた点があれば指摘してもらえると幸いです。あと、おすすめの本とか教えてくれると嬉しい。

 最後に、持てるものも、持たざるものも、皆様が楽しいクリスマスを過ごされんことを。そして、新しい年を健康に迎えられることを願って、この文章を閉じさせていただきます。(何をとは言わない。食べ過ぎに注意!)


7クリスマスっぽい写真。

オーガニックな感じのケーキは美味しかったです。あと、めちゃくちゃ歩きました。


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